昭和40年08月16日 夜の御理解
今日は盆の十六日で御座いましたから、皆んなやら息子達が働きに出たり、嫁に行ったりしておる人達が帰って、里に帰って参ります。ですからもう朝から今日は家族連れで、珍しい久し振りの人達が沢山お参りして来たのですけれども。そんな事で賑わいました。本当に私は、有り難いと思いますんですけれどね、矢張りあの日頃お参りが出来なくても、さあ皆んな兄弟今日は顔を揃えた。
先ず椛目にお礼に出ようと。そう言う様な信心がです、家庭の中に何時もなからなければいけないと思います。ね。中にあの、今日は久保山先生所の孫さんです。順ちゃんが今日は誕生でした。それでまあ、家族でお礼に出て参りました。私はその事を神様にお届けさせて頂きよりましたら、神様から頂きます事は、しんじゅ真の寿と頂きました。いわゆる、本当のおかげと言う意味でしょう。
真の寿という。そしてあの、あそこにあの、寿扇と、寿の扇という、どう云う事だろうかと思うたら、あの寿の扇という酒を頂きましたから、扇と言うのは末広の事。ですから私は御理解に、本当のおかげという真寿というのは、親の代よりも子の代。子の代よりも孫の代と、と言う様に信心がいよいよ寿になり、いよいよこう末広に広がって行く、それが私「真寿」。それが真のおかげだと私思うです。
どれでもひとつそう言う様な、信心をお互い目指させて頂かなければなりません。これは今日はあの北野の秋山さんところの、悌子さんの赤ちゃんが出来まして、今日がちょうど日晴れにあたるというので、また嶋野さん親子三人、それから兄弟あの姉さんの京子さん達が親子、それから、秋山さん達と一緒にお礼に出て参りました。それでそのお届けをさせて頂きよりましたら。
というのが本当に皆が、子供が日晴れのおかげを頂きまして有り難う御座いましたと、いうて、母親も共々に元気でおかげを頂いておる事が、お礼を申し上げねばいけませんですね。難産と言う様な事になって、親は取り留めても子供は取り留めなかったとか、子供は助かったけれども、親のほうが出来なかったなんて云う事ではいけませんし、その後体も順調にお乳も沢山あって、おかげを頂いておるので御座いますから。
日晴れのおかげを頂くと言う事は、母親の体の上にも矢張り日晴れなんだ。そう言う様な事を、お礼を申し上げねばならんと言う様な、ご注意を頂いてからでした。御心眼に、あの尾長鳥というのがニワトリの尾の長いのがありましょうが、あれを頂いてから、そのあの尾が綺麗に取れて行ってですね、普通のニワトリになって行く所頂くんです、そしてこの漁っておるのです餌を。見掛けだけが良い氏子になっちゃ詰らんと。
芯が良い氏子に願わないかんと。言わばあなたの御用にあなたの御用に身も体も健やかに、健全に、あなたの御用が出来ます様な氏子にお育てを頂きます様にと云う事を、願えという御理解であった。唯可愛いらしか可愛いらしか、さあ蝶よ花よと言うだけではいかんと言う事。心も身も健全にしかもその安産の御用が出来る様な、例えていうなら難儀の中難儀なら難儀の中にもです、その餌を拾わせて頂いて、喜びの卵を生んで行く様な氏子に育ちます様にと言う事であった。
私はあの思うのですけれども、その久保山先生所のそれではないけれども、私はあの寿扇と云う事を頂いてから、久保山先生白扇をもっておいで白扇を持って来て私の下手な字ですけれども、「真寿」というそのそれを書かせて貰おうと私のサインもさせて頂いた。これがまあ純ちゃんが誕生の時にお書き下げを頂いたんだと、「真寿」というのは、あん時はこういう御理解だった。
おじいさんの代よりもお父さんの代、お父さんのぢよりも僕の代に、いよいよおかげを頂いて行く様なおかげを頂かなければ、この真寿というのは、唯これは額にあがっておるとか、唯それが頂いておるというだけでは何にもならん。果たしてそう云う事になっておるだろうかと、言う様な事を、まあ後々そう言う風な意味合いにおいて、おかげを頂く事だろうと私は思わせて頂いて。
( ? )そう言う様な、その真寿のおかげというのがです。そんならどういう、信心をさせて頂かんなら、親から子、子から孫に伝わるかと言う事なんです。申します様に、秋山さんの所の子供が頂いた様に、嶋野比佐世さんが頂いておる様にです。身も心も健全に、しかもあなたのお役に立つ、世の中の人の為のお役に立つ様な氏子にとり立て下さいと。そしてどう云う様な、例えば難儀な中にあっても。
そこから喜びを見出して行く様な信心を頂かせて下さいという、私は信心から真寿のおかげが頂けるとこう思うのですよね。私今日お昼下がらせて頂いておりましたら、何だったでしょうか。何か見事な家内がそれこそ、一万円もするじゃろうと云った様な、このハンドバッグのお供えを頂いておる。あ、ちょっとこう、見せてという訳。私が裸でおるとにその、やって参りましたから、これはお供えせんならんけん。
ちょっと神饌室に入れておいてくれと私は言いました。そしたら栄四郎が言う事ですもん。「お父さん僕が神饌室に入ってもいいの」とこう言う訳なんです。私はこのポケットと、やられた気なんですね。子供が、「あんた達は神饌室に入ってはならん、入ってはならん」と私が言うもんだから、何時も、入ってはならんというもんだから、いわゆる、神饌室の言わば尊厳を、子供が汚してはならんと云う様な気持ちがです。
何時もそう言っておる訳なんです。だから私ちょっと神饌室に入れといてくれと言ったもんだから「お父さん、神饌室に入ってもよかの」と。久富先生から、「今日は栄四郎ちゃんから、一本やられたごたる風ですね」ちいうてから、笑っておられました。私は、そう云う様な、日頃しつけが大事だと思う。神様にお供えするとを、自分の手づかみで、子供が取り合うのです、そういう信心を子供にしつけては駄目だと。
例えば、今日私が言うのは、信心のおかげを頂く為にはです、本当のおかげを頂く為には親よりも子、子よりも孫と云う様なおかげを頂く為にはです、家庭の中にそういう、毅然とした信心がなされて行かなければいけないと言う事。今日は丁度、親戚の者も来ておりましたものですから、夕方お盆のまあしるしをさせて頂いて、お神酒を一献頂いておりましたもんですから、ちょいと体がきつかったんです。
そこへまた次にお参りがあったりしてですね。まあその方達に御飯を上げとる間に、私がまあ御祈念の時間までちょっと時間があるからちょっと横にならせて頂いた。そしたら栄四郎が来てから申します。「お父さん、もう、御祈念がすぐじゃから、もう、三十分すれば御祈念だからもう、眠っちゃいかんよ、眠っちゃあいかんよと、僕が足をもんでやろう」と云う訳で、もう一生懸命痛い所を叩く訳なんです。
そして私がわざっと眠った振りをすると、「ほらほら、お父さん、もう御祈念の時間だから眠ってはいかん、眠っちゃいかん」とこう言う訳なんですよ。例えば親が子を子が親をですたい、事信心の事になったら励ましあいです、注意し合いです、その位の物が、私はなからなければいかんと思うです。いわゆる信心の家庭というのは、そう云う様なです、ものが子供にも親にもなからなければいけないという事。
親がだらしがない、なくなる時もありゃ、子供がだらしなくなる時もあるけれども、そこを、お互いが注意し合い励ましあい、と言った様な信心。同時に神様、ご神前というたら神様、子供でもです、いきなり子供達が、例えばその様なものでも、勝手に取る事の出来ない位な、しつけがです、家庭の中に出来ていかなくてはならないと言う事です。私共は、そげな風に育てられて来た。
いうならば例えば、はたきやおふきんやらです、それが、神様と霊神様、はたきがもうその、ついその普通のはたきでやろうとする。「そりゃあ神様とじゃないとじゃないと」こう言う風にまあ言われて来た。その位な私は信心がです、一つその家庭の中に出来て行くと同時に、秋山さん所の子供が頂いた御理解の様にです、どの様な中にあっても、喜びの餌を探して行く、喜びの卵を産んで行く様なおかげを頂くから。
何時までも人間にその、ニワトリが愛される様に、どの様な中からでも喜びを見出して行く様な人間になるから、神様に何時も愛され続けれる事が出来る様に。そういう信心を頂いて始めて真寿であり、いわゆる、寿扇のおかげ、いわゆる末広のおかげが、約束されるのではいかとこう思います。親の代には、あんなに熱心に信心しよんなさった、けれども、子供さんの代でもうなくなったと云う様な事では出来ん。
いや子供に孫に段々、伝わってはおるけれども、信心がおじいさんの時には、なにせないかんやったら段々お祭りしてあるという、そら信心はしござるけれども、生き生きしたものがないと言った様な事では尚更ならない。親の代よりも子供の代、子の代よりも孫の代といよいよ、お道の信心が成長して参りまして、その成長と同時に繁盛の、おかげも末広のおかげも頂けれる様なおかげを頂いて、行かなければならないと。
為には家族中の者がその気になって励まし合い。事信心の事になったら、一つの毅然としたものがです。神様の前にはです。その位のものがです。ご神前にお座敷にお祭りしてあってもです。前を通るのにこう頭いっちょ下げんで、通りよるごたる風になったら駄目。前を横切らせて頂くなら、頭一つもこう下げさせて頂く様なです、私はまあいうならばしつけがです。子供達の上にも必要ではなかろうかと。
そこに親、子、孫といよいよ間違いなのない、金光大神の教えられた信心と言うのがです。いよいよ、末広のおかげになって頂けて来る。私共が思わん物はありますまい。私共がおかげを頂かせて貰うて、有り難いと思うならです、その有り難いと思う心をです、子供に伝えたいと思う親はないでしょうか。そんならその位の努力は、しなければいけないと私は思うですね。
おかげを頂かねばなりません。